ローバーに魅せられた人生。

VOL.261 / 262

岡本 元良 OKAMOTO Motoyoshi

有限会社 モトレージ 代表。兵庫県神戸市出身。創業は1977年で、当初は自動車修理を中心に展開していたが、自身が4駆に目覚めてからは1982年4駆ショップに生まれ変わった。1987年に現在の東灘区住吉宮町に移転し、ジープJ58のリーフスプリングを皮切りに500点以上のオリジナル商品を続々と開発。今年古希を迎えた現在も、開発の日々を続けている。

日本の4駆業界のレジェンド、鉄人と呼ばれている岡本元良さんのルーツは根っからの車好きとしか言いようがない
加えて、常に高みを目指す「向上心」出会うべくして出会ったローバーに魅せられ人生が動いていく岡本さんの半生を凝縮して語ってもらった

ローバーに魅せられた人生。---[その1]

世界一過酷なアドベンチャーレースと言われているキャメルトロフィーでは貴重な経験をするとともに、仕事でも大きな転機となるきっかけとなった。

 実家が食料品の卸し売りをしていて、トラックやライトバンなど車が常時身近にあったのと、父が車好きだったんです。そんな環境だったので、初めて車を運転したのは小学校3年生の時でした。見よう見まねで自分でダイハツのミゼットを動かしてみました。小学校6年生の時には、トヨタのスタウトという1500ccのトラックを私有地で運転していました。
 高1で軽免許、高2で自動二輪免許、高3の誕生日に学校をサボって運転免許試験場へ行き普通免許を取りました。大学1年の時に父のV8のクラウンを使用してA級ライセンスを取りました。

父が仕事でいろんな車を使っていたこと、そして父の車好きの影響を受けて、岡本さんは車に熱中していく。

4駆の魅力を知る

 子供の頃から親の商売を継ぐと感じていたので、甲南大学の経営学部に入りました。ただ車好きは加速していて、自動車部に入ってラリーやジムカーナに参加していました。アルバイトも最初はガソリンスタンドで、ブレーキ調整やオイル交換など最低限のことを1年生の夏休みに覚えて、次は修理工場。自分がラリーに出る車両のタイヤ交換、クラッチのオーバーホールなんかを学びました。一番楽しかったのが2年ほど通った解体屋さん。給料なしで手伝わせてもらって、車を壊しまくりました。スパナとハンマー、たがね、ドライバーがあれば、特殊工具がなくてもエンジンをバラせる方法など、車についての知恵をつけることができました。
 マツダのB360にファミリア800のエンジンを載せたり、ボディを切ってオープンカーにしたり、大学生の頃はそんなことをして遊んでいました。それが今の店のルーツになっていると思います。
 そういった経験から、どうしても車の仕事をやってみたくて、親の会社には入らず、大学を出てから修理工場に丁稚奉公に行ったんです。2級整備士の資格を取って一人前になった頃、知り合いの修理工場が間借りさせてくれて、いきなり車の修理や中古車販売の商売を自分で興して始めることになりました。
 でも、修理工場はしばらくで見切りをつけました。昔は10年を超えた車は毎年車検でしたが、それが2年車検になったり、車検ごとにオーバーホールが必要だったドラムブレーキがディスクブレーキになったり、ポイント式の点火方式がダイレクトイグニッションになったり、修理の幅が狭まっていったんです。これでは先がないなと思っていた頃、4駆ショップをやったらどうかとひらめいたんです。ちょうど、国内ではパジェロが出始める頃ですね。
 修理工場をやる頃から、お客さんの車を引っ張るのにジープを所有していたのですが、牽引としてしか使っていませんでした。ある日、それで山へ行ってみたら、ラリーやジムカーナとも違う別世界に衝撃を受けました。人間が這わないと登れないような坂を三菱のジープは軽々とクリアしていくんです。サーキットを走るのが2次元なら、もうひとつ斜めが加わる3次元の世界で、その面白さが4駆ショップを始めるきっかけになりました。
 所有していた三菱のジープのバネを換えたら足が動くようになって走破性が上がり、それにノンスリップデフを付けたらさらに駆動力が上がる。その世界にどんどんハマっていきましたね。お客さんにパーツをいかに安く売るかではなく、そういった面白さ、奥深さを伝えることが4駆ショップの使命。お金をもらって車を変身させて、その姿を見た時のお客さんの笑顔が、この仕事をする中での最高の喜びやなって感じていました。
 4駆ショップは昭和57年に始めたんですが、当時は4x4マガジン誌が唯一の宣伝手段でした。国産の4駆もジムニー、ランクル40&60、三菱のジープ、パジェロ、ダイハツのラガー、ニッサンのサファリくらいで、そんな車を見つけて「ここで4駆ショップをやっています」というチラシをワイパーに挟む宣伝をしようと一晩走ったのですが、見つけた車は3台だけ。そんな時代に4駆ショップをスタートさせていたんです。

モトレージ創業は1982年。4駆ショップの先駆けだった。

キャメルトロフィーに挑戦

 あの頃は毎年、ジープジャンボリー(JJ)というイベントが開催されていて、第7回のJJで、キャメルトロフィーの参加者募集をしていたんです。世界中からツワモノを集めて、赤道直下のジャングル地帯で冒険を楽しむというものです。日本が初めてそれに参加することが決まり、JJでも募集をしていて、それを見た僕は自分が求めていたのはこれだとピンときて申し込みをしました。
 初年度は3000人の応募があり、その中から選ばれた100人が富士の裾野で選考会に参加しました。2泊3日で、運転技量やさまざまなテストを経て、8人4組のペアが本戦に行けるのですが、僕は9番か、10番の補欠要員で、結局は最終選考会に残ったまでの記録に終わりました。
 翌年は4000人の応募があり、本戦出場は1台のみ。さらに倍率が上がった中、最終選考会に参加できる4人のうちのひとりに選ばれました。私を含む4人はその後、1ヶ月かけてイギリスでトレーニングをするプログラムに参加して、最終的に2人に絞られます。残念ながら、最後のふたりには残れなかったのですが、最終選考会の最後の最後まで残れたのはこの業界では僕だけ、という名誉ある経験をさせてもらいました。
 イギリスのトレーニングで使っていた車両は、ディフェンダーに変わる寸前のランドローバーでした。存分に乗せてもらって、それを受け継ぐディフェンダーの良さを僕は誰よりも分かっていました。リヤがAアームで足がすごく動いてくれ、4輪コイルスプリングであることも斬新でした。三菱のジープ、ジムニー、サファリ、ランクルにも乗りましたが、どれも4輪リーフで、コイルスプリングではありませんでした。どうしてもディフェンダーを手に入れたいという気持ちが高まり、自分で日本に輸入しようと、ついに動き始めたんです。(以上、エンケイニュース2020年9月号に掲載)

ディフェンダーに、レンジローバーに魅せられた岡本元良さんの人生はその後、大きく変化していくが
すべては「四駆の魅力を伝えるため」
ひとりでも多くの人に「乗り続けてもらうための環境を維持するため」の飽くなき追求だった

ローバーに魅せられた人生。---[その2]

 ディフェンダーに惚れ込んでからは、日本に輸入するために全力を注ぎました。まずはローバージャパンにディフェンダーを入れて欲しいと頼み込みました。クラシックレンジローバーを買う代わりに、1台輸入してもらうという交渉もしましたが、結果はダメでしたね。最終的に、イギリスのランドローバーを販売している会社と交渉して、なんとか日本に送ってもらう手配をできました。ディフェンダーを新車状態で日本に持ち込んだのは、たぶん私が最初ですわ。
 ただ、その後も大変でした。通関、排気ガス検査をどう通すか? いろんな人に相談しつつ税関に通って、税務官に「どうしたら通関してくれるか?」を粘り強く相談しました。同じように陸事でも「どうしたらナンバーをくれる?」と、ここでも食らいつきました。ようやく日本に届いたディフェンダーを自分の手で走れるようにしたい……という思いで、通関、排気ガス検査、輸入車申告、ナンバー登録までをやり遂げたんです。最終的には15台を輸入して、ナンバー登録を完了させましたが、当時のディフェンダーにはそのくらい魅力を感じていました。
 現在の新型は電子制御の塊になり、個人的には興味の対象から外れつつあります。新型の前モデルまでのディフェンダーと、クラシックレンジローバー、セカンドレンジローバーあたりまでがうちの守備範囲です。ただ供給終了部品が多く、なかなか乗り続けるのがしんどい状況にはなっていますけどね。
 四駆の店としては、最初に手に入れたジープがマイナーチェンジしてリーフ巾が広くなり、足の動きが以前ほどではなくなっていったので、改善するためにリーフスプリングを作ってみたのがオリジナルパーツの出発点になりました。ショップを始めて3年目の頃です。ランクル用、ジムニー用と、足回りからスタートして、足が動くようになったら次はノンスリップデフだなというふうにオリジナルパーツがどんどん増えていきました。もともとはショップから始まったのに、気づいたらお付き合いするショップが全国規模になって、今では3分の2くらいの業務がメーカーのようになっているんです。

競技の方はキャメルトロフィーに始まり、アジアン・クロスカントリーラリーには合計5回も参戦し、台湾フォードのファクトリーチームのドライバーとしてステアリングを握った経験も持つ。トライアルやダートチャレンジにおいては、選手としてだけでなく数多くのイベントの主催も担った。

四駆を救うために

 四駆って、そもそも役に立つ車だと思うんですよ。地震や洪水などの災害時に車内で2〜3人が寝られるスペースがあるし、悪路でも走れます。車高を上げてシュノーケルをつけてウィンチを装着すれば、誰かの車が動けなくなった時にレスキューすることもできるし、乗用車とは比べものにならない水深の中を進んでいけます。そんな役に立つ車をずっと残したいという思いで開発をしてきたし、世の変化に対しても私は戦ってきました。
 厳しかったのが、ディーゼル車の排気ガス規制が始まった時です。最終的にダメでしたが、運輸省と環境省に四輪駆動車の規制緩和を直談判しに行きました。その規制によってガソリン車に乗り換える人が続出したのですが、四駆のガソリン車は燃費が悪いわけです。おそらくディーゼル車の3倍くらい燃料代がかかってしまう。それで嫌気がさして四駆から離れていったら、もう戻って来ないんじゃないかと危機感を持った私は、なんとか排気ガス規制をクリアするディーゼル車にするから「皆ちょっと待ってくれ」と訴えかけたんです。試行錯誤の末、約100台のディーゼル車を救いました。またディーゼル車をLPガスでも動く車にしたり、ガソリン車をLPガス兼用車にする開発を続けて実現してきました。「よう自費でそんなことをやったな」と褒めてくれる人もいますし、「アホやな」と思っている人もいると思いますが、四駆のありがたみ、魅力を知った人に乗り続けてほしいという気持ちがすべてでした。
 モトレージは今年で創業38年目を迎え、扱う車種や業務内容が時代とともに変化してきていますが、根本にある我々の役目は四駆の魅力を伝えること、乗り続けてもらえる環境を維持することに尽きます。過去、オリジナルパーツを500点以上も開発してきたのも、単に利益を追求するのではなく、それらを実現するための手段でした。
 最近注目している車種はやはりジムニーですね。現行ジムニーは20年先まで仕事になると私は思っています。新しいショップが次々に参入してきて戦国時代に突入し、これからさらに混沌となるでしょう。そんな中で、うちにしかできない路線を貫いていきたいですね。安売り競争に加わるつもりはありません。自分で照準を定めて狙って取り組んでいく限りは、追従を許さないよう開発にも力を入れていきます。最終的にはこだわり続けたところが残るし、四輪駆動車を相棒に夢を持ち続ける人生を貫きたいと思う今日この頃です。(以上、エンケイニュース2020年10月号に掲載)

神戸市東灘区に店舗を構えるモトレージ。今年で創業38年目、岡本さんとこのショップは四駆業界ではレジェンドのような存在だ。

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